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疲れたサラリーマンシリーズ

■2023.05.08~2023.05.23

 

「突然の別れ」に女性の仕事にたいする差別的な表現があります。R15程度の性的な表現があります。
「逃れられない呪縛」は番外編で、山猫亭のウエイトレス視点です。

 


日替わりお題「図書館」
 突然の雨に降られて、逃げるように近くの図書館に駆け込んだ。雨脚が強くなっていくのを見て、これはしばらく止みそうにないなと、午後の予定は諦める。

「さて、どうしたものか……」
 本棚の間を目的なく歩きながら、そう言えば本を読まなくなって随分経つなと思う。学生ののころに夢中になって読みあさったミステリー小説たちは、今も実家にあるだろうか。それともとっくに処分されてしまっただろうか……。
 ふと、一冊の本に目が止まる。それは映画化もされたベストセラー小説で、当時映画館で観るのを楽しみにしていた。だが、一緒に映画を観に行く約束をしていた恋人と別れてしまい、結局映画も観ずじまいだったのだ。
 ほろ苦い思い出に苦笑いしつつ、本を手に取る。ぱらりとページをめくれば、本の手触りに懐かしさを感じる。辺りを見渡すと、ちょうど窓側のソファー席が空いていた。柔らかなソファーに腰掛け、改めて本を開く。
 そこからは時間も音も、何もかもが止まってしまった。
「はぁ……」 
 ため息とともに、読み終わった本を閉じる。さすが話題作だっただけに面白く、一気読みしてしまった。まるで一本の映画を観てかのような読了感。ただただすごだかった。
 腕を上げ、ぐっと伸びをする。凝り固まってしまった筋肉を軽く解し、視線をあげれば、あんなに降っていた雨はもう止んでいた。
 家に帰ったら配信サービスで映画版を観るのもいいかもしれない。俺はすがすがしい気持ちで、図書館を後にした。

 


日替わりお題「レコード」「出来心」「行き止まり」

 入り組んだ道の行き止まり。俺がその店を見つけたのは、全くの偶然だった。会社帰りの道ばたで見かけた、一匹の黒猫。俺の少し先を行くその猫が、こちらを向いてまるで着いてこいとばかりに「なぁーん」鳴くから、出来心で後をつけただけなのだ。
 店構えはレトロな純喫茶と言った感じで、木彫りの趣がある看板には『山猫亭』とある。猫に案内されてたどり着いたのが『山猫亭』と言うのが面白い。俺はワクワクした気持ちになって、店の扉を開ける。
 カランカランと、ドアベルが鳴って踏み込んだその場所は、まるで別世界だった。
 大正ロマンで統一された店内は、アンティークな蓄音機からジャズが流れ、オレンジ色のランプの炎が揺れている。ウェイトレスは赤地に大柄の牡丹をあしらった着物と紺の袴を着ていて、焦げ茶の編み上げブーツを履いていた。
 俺はウェイトレスの案内で、奥まった席に腰を下ろし、コーヒーを一杯注文した。コーヒーを待つ間、俺はノートパソコンを取り出して、持ち帰った仕事してしまうことにする。しばらくしてコーヒーが運ばれてくると、コーヒーのよい香りが鼻腔をくすぐる。アンティークなカップの中に濃褐色の液体が揺れている。一口飲んで、ほっと一息つく。
 ――旨い。雰囲気もいいし、この店は正解だな。
 俺はカップを静かに置いて、また仕事に取りかかる。

 どれだけそうしていただろうか。静かに流れていたジャスが止まり、ウエイトレスがレコードを変える。最近は仕事のストレスで、胃が痛い思いをすることも多かった。だがこの店では、久しぶりに穏やかな気持ちで時間を過ごすことができた。もちろん休暇はとっていたが、俺に必要だったのは、心の休息だったのかも知れない。
 次に来るときは仕事を持ち込まず、ただゆっくりと過ごしたいものだと俺は思うのだった。

 


書く習慣「モンシロチョウ」

 ひらひら、ひらひらと、一匹のモンシロチョウが花から花へと飛んでいく。俺はそれを眺めながら、こんな街中にも案外花が咲いているものだなぁと感心していた。
 タンポポ、シロツメクサ、ハルジオン、ヒメオドリコソウ、ウスアカカタバミ、イモカタバミ、オニノゲシ、それからそれから……。正直俺はタンポポの名前くらいしか知らなかった。スマーフォンのカメラをかざすだけで花の名前がわかるなんて、便利な世の中になったものだと思う。
 ひらひら、ひらひらと、モンシロチョウを追いかけて、俺もとことこ歩いて行く。
 平日の昼間から俺がこんなことをしているのには、訳がある。本来ならば、今頃は仕事の打ち合わせをしているはずだった。しかし相手先の方でトラブルがあり、打ち合わせの予定がなくなってしまったのだ。突如できてしまったこの空き時間を、こうして俺はモンシロチョウを追いかけて過ごしていると言うわけだ。
 仕事用のスマートフォンが鳴り、しばしの間応対する。通話が終わって足元を見ると、カラスノエンドウの蜜を吸っていたモンシロチョウは、もうどこかへいってしまっていた。
 次の仕事先へ向かうタクシーの中。俺は画像フォルダにに残された、野花とモンシロチョウの画像を眺めながら、有意義な時間が過ごせたと思うのだった。
 
■参考サイト
野草探検 春に花を咲かせる野草
https://www.asahi-net.or.jp/~uu2n-mnt/yaso/tanken/haru/yas_tan_haru.htm


 


日替わりお題「真っ白」

 夜から明け方に降った雪が、世界に真っ白な綿帽子をかぶせている。俺は誰よりも早く起き出して、まだ誰にも踏まれていない雪の上に、足跡を残していく。
 ザクザクザク、ザクザクザク……。足の裏から伝わる、雪が潰れる感触が面白い。歩いているだけでも楽しくて、今ならどこまでだって歩いていけそうだ。
 俺が目指しているのは近所にある、遊具が撤去されてベンチくらいしかない寂れた公園だ。途中犬の散歩させている、寒そうな格好をした老人とすれ違った。こんな日までご苦労様ですと、心の中で思う。
 目的の公園にたどり着くと、案の定そこには誰もいなかった。広く開けた公園の敷地内に雪が積もっている。一瞬雪だるまでも作ろうかなどと年甲斐もなく思ったが、誰かに見られたらと思うと行動には移せなかった。
 俺は公園内には入らず踵を返す。ここに来るまでの間に、十分誰も踏んでいない新雪を踏んできた。真っ白な新雪を踏み荒らすという楽しみを、まだ見ぬ他に誰かにお裾分けしたい気分に俺はなったのだった。

 


書く習慣「おうち時間でやりたいこと」

「主任はぁ、おうち時間ができたら、何かしたいことはありますかぁ?」
「は? おうち時間? なんだそりゃ」
 俺は取引先へメールを打ちながら、パソコンから顔も上げずに答える。くだらないことを聞いてきやがって、俺が忙しく仕事をしているのがわからんのかと思う。
「おうち時間っていうのはぁ、なるべく外出はしないで、自宅で有意義に過ごすことですよぉ」
「ゴールデンウィークが終わったばかりだろう。もう休むことを考えているのか」
「そういうわけじゃないんですけどぉ。主任がいつもどんな風におうち時間を過ごしているのかなぁって、気になったんですぅ。なぁんか主任って、いっつもせかせか働いているじゃないですかぁ。ちゃあんとお休みしてるのかなってぇ」
「お前には関係ないだろう。そんなことよりなぁ、お前の企画書誤字だらけだったぞ。企画自体は悪くないんだから、気をつけろ!」
 やっとメールを打ち終わった俺は、椅子ごと部下に向き直り、修正箇所にマークをつけた企画書を返す。
「わー! めっちゃありがとうございます! バッチリ修正して、完璧な企画書に仕上げちゃいますね!」
「俺が見てやっているんだから、その企画必ず通せよ」
「わかってますってぇ。それに主任、俺がプレゼン得意なのも知ってるでしょ。この企画書さえできちゃえば、あとは余裕ですってぇ」
 そう言ってへらっと笑う部下は実際優秀で、俺も期待している。この企画だって通るだろう。
「いいから、さっさと直して持ってこい」
 俺はしっしと手で部下を追い払う仕草をする。
「はぁい」
 鼻歌でも歌い出しそうな調子の足取りで去って行く部下を見送り、俺はデスクに向かう。
 ――おうち時間ねぇ。
 俺の楽しみと言えば、晩酌しながら映像配信サービスで映画を観ることくらいか。以前の俺は、家には寝るだけに帰っていたようなものだったから、あの頃に比べたら今は『おうち時間』って、やつが充実しているのかもしれない。
「さて、今夜のおうち時間は何をするかな」
 俺は独りごちて、おうち時間でやりたいことを考えるのだった。

 


日替わりお題「世界に1人だけになったら」

「世界に一人だけになったら、世界中の酒が俺のものになるな」
 そう考えると、世界に1人だけになるというのは悪くない。一人きりだから働かなくてもいいし、一人きりだから誰に気兼ねすることなく、毎日好きなことだけをする。
「うん、悪くない。最高ではないか」
 コンビニ弁当をつつきながらこんなことを考え始めたのは、動画配信サービスの特集で目についた、とある映画の予告編を観たのがきっかけだった。荒廃した世界で、人類最後の人間になった男の話だった。興味は惹かれたが、見放題ではなかったので諦める。月額料金内で観られるコンテンツが他にもたくさんあるのだから、そちらを優先的に観ていきたいと思うのは自然なことだろう。
 さて、世界に一人だけになった場合だ。電力会社で働く人がいなくなるから電気はなくなり、夜は真っ暗。電気がなければ、電子レンジでコンビニ弁当を温めることも、パソコンで動画配信サービスの映画を観ることもできなくなる。エアコンも使えないから夏は蒸し暑く、冬は凍えるほど寒い。
「こうして考えると、電気というのは偉大だな。文明万歳!」
 今食べているコンビニ弁当だって、誰かが作ってくれたものだ。俺には料理スキルがないから、世界に一人きりになったら、食材を丸かじりするくらいしか……。
「あーあ、やっぱり世界に一人きりになるのは無理だな!」
 わかってはいたが、結局のところ今の生活が一番なのだ。本日二本目の缶ビールを傾けながら、明日も働くかと俺は思うのだった。

 


日替わりお題「猫の足音」

 黒猫が一匹。足音も立てずに道の真ん中を歩いて行く。俺もその後をついて道の真ん中を歩いて行く。
 この辺りの道は入り組んでいて、道幅も狭く、めったなことでは車も入って来ない。黒猫も俺も、歩みに迷いはない。目的地はこの先の行き止まりにある純喫茶『山猫亭』だ。
 『山猫亭』の店先で掃き掃除をしているウェイトレスを見かけると、黒猫が一目散に駆けていった。黒猫はゴロゴロと喉を鳴らし、ウェイトレスの足元に纏わり付いて「なぁーん」と、甘えた声で鳴いている。
「ミケちゃん、お腹空いてるの? 後でご飯あげようね」
 あの黒猫、ミケっていうのか。なんで黒猫なのにミケなのか疑問だが、そんなことよりも今は……。腕時計を見ると午前六時五十三分。『山猫亭』の営業時間は午前七時からだから、俺は少し早く着きすぎてしまったようだ。どうしようかと思っていると、遅れて到着した俺にウエイトレスが俺に気付く。
「あら。お客様かしら?」
「はい。少し早いんですが大丈夫ですか?」
「もちろんです、ご案内しますね。どうぞいらっしゃいませ」
 ウェイトレスの案内で店内に入る。すると黒猫のミケも一緒に入ってきて、定位置と思われるレジ横の座布団の上に丸くなった。
 俺がモーニングを注文して、おしぼりで手を拭いていると、ウェイトレスがミケに餌をあげながら、話しかけているのが聞こえてきた。
「ミケちゃん、お客様をご案内できて偉いねぇ」
「なぁーん」
 俺がこの『山猫亭』を知ったのも、あの黒猫のミケがきっかけだった。こうして客を連れてきているのだから、たいした看板猫だと思う。
 いつか機会があったら、何故黒猫なのにミケと言う名前なのかを尋ねてみてもいいかもしれないと、俺は思った。

 


書く習慣「愛があれば何でもできる?」

『どんなに辛い運命が待ち受けていようとも、二人の愛さえあれば何でもできるさ!』
『ええ。私、あなたについて行くわ! どこまでも……!』
 壮大な音楽が流れ、画面にキラキラのエフェクトが舞う。
「はっ、愛があれば何でもできる? ばかばかしい」
 俺は鼻白む。晩酌をしながら、いつものように惰性で映画を流していたのだが、どうも俺には合わなかったようだ。
 映画は身分差のある二人が手を取り合い、今まさに駆け落ちをしようというところ。動画下部ににあるシークバーを確認すると、この映画はこの後1時間以上続くらしい。このまま酔いに任せて、映画にケチをつけながら観るのは建設的とは言えないだろう。俺は潔くブラウザバックした。
「やっぱ俺、恋愛とかわかんねぇな!」
 近年は、帰省のたびに両親から孫をせがまれるようになった。誰かいい人はいないのかと。
「そんなもんがいたら、一人でコンビニ弁当なんか食ってねーわ!」
 俺だって全くモテずにきたわけじゃない。だが、仕事が忙しくて正直女どころではなかったのだ。そんなことよりも、今は……。
「次は何観るかな」

 


書く習慣「真夜中」

 日付が変わって深夜一時。俺がこんな真夜中に出かけているのには、訳があった。煙草が切れたのだ。まだ、もう一箱あると勘違いしていた。迂闊だったと思う。
 コンビニエンスストアへ向う道すがらには、人っ子一人いない。街灯の明かりに虫たちが群がっているのを横目に、俺はとぼとぼ歩く。
 俺は昔ながらの紙煙草を愛煙している。電子タバコは吸った気がしなくて、俺には合わなかったのだ。
 駅前の喫煙所が廃止されて花壇になったのは、何年前のことだったろうか。分煙が進むのはいいことだとだと思うが、煙草が吸える場所が徐々に減ってきているのを実感している。
「今どき煙草なんて、時代じゃねーよな」
 わかってはいるけれど、やめる気もなかった。

 コンビニエンスストアで煙草をワンカートン、ついでにエナジードリンクと夜食を買って家に帰る。
 部屋に帰るなり換気扇の下で一服する。紫煙をくゆらせながら、俺は持ち帰った仕事のことを考えていた。
「真夜中のうちに終わればいいがな」

 


書く習慣「恋物語」

 恋をしてこなかったわけじゃない。忘れられない人がいるわけでも、人嫌いなわけでもない。だが、今の俺は恋とは無縁の生活を送っている。
 俺が最後に恋をしたのは、もう4年も前だ。「私と仕事と、どっちが大事なの?」と、いう二択を迫られて、俺は仕事を選んでしまった。当時の恋人には悪いことをしたと今でも思っている。
 仕事に追われて日々を過ごすうちに、恋をしたいという欲求は薄れていった。一人で生きることに、俺は慣れすぎてしまっていたのだ。
「俺の恋物語は、もう始まらない気がするなぁ」
 一人暮らしの、一人きりの部屋の中。独りごちて、缶ビールを傾ける。
 俺が柄にもなくこんなセンチメンタルな気分になったのは、仕事終わりに居酒屋で部下の恋愛相談に乗ってやっていたせいかも知れなかった。
 ピンコン! と、軽快な通知音が鳴る。メッセージを確認すると部下からで、どうやら意中の彼女と上手くいったようだ。『お幸せに』とだけ返信して、俺は晴れやかな気分で缶ビールを飲み干した。

 


日替わりお題「ヨーデルスキー」「照明」「寝る」

 照明を落としてベッドに潜り込む。寝るという行為は、俺にとって何事にも代えがたい至福の時間だ。
 だけどもだ。だけども今夜は一向に眠気が訪れない。目を閉じてごろごろと寝返りを繰り返しても、俺の頭の中は『ヨーデルスキー』でいっぱいだった。
 『ヨーデルスキー』とは何かを説明することは難しい。寝る前の日課で見ている拡散型SNSのもじすきーサーバー内にて、たまたま話題になっていたのが『ヨーデルスキー』だったのだ。
 突如運営のお題BOTから投下された『ヨーデルスキー』という言葉。しかし『ヨーデルスキー』を知るものは誰もいなかった。そこから『ヨーデルスキー』とは何なのかという議論がヒートアップすることになる。仕舞いにはもじすきーサーバーを運営している中の人までがアナウンスを出す始末で、タイムラインは混沌としていた。
 俺は一連のヨーデルスキー祭りには参加せず、ことの成り行きを静観していたのだが、深夜になっても『ヨーデルスキー』が何なのかは、わからないままだった。
 これ以上タイムラインを監視し続ける訳にもいかず、寝ることにした訳なのだが、一向に眠気は訪れない。
 アルプス山脈をヨーデルを歌いながらスキーで滑走するヨーデルスキーさんを想像する。もう止めようと思うのに、頭の中で無駄に流れ続けるヨーデルの調べ。
「ああ、駄目だ。しばらくは眠れそうにはないな」
 俺は寝るのを諦めて、うろ覚えのヨーデルを口ずさむのだった。

 


書く習慣「突然の別れ」

 夜の繁華街。ケバケバしいネオンの明かりに照らされて、初恋の人が立っていた。俺と目が合うと、彼女は一瞬傷驚いた顔をしたけれど、直ぐに営業用の笑顔になった。
「久しぶりだね。中学校の頃以来かな。元気してた?」
「ああ、久しぶり。元気だよ……」
 言葉が上手く続かない。夜の仕事に偏見はないつもりだった。だけども俺は、彼女の夜になじんだ姿を見てショックを受けていた。

 彼女は中学のときの同級生だった。成績優秀で、品行方正。スポーツもできて、誰にでも優しくて、おまけに美人。彼女は皆の憧れの的で、俺も密かに想いを寄せていた。
 だけども卒業アルバムに彼女の写真はない。彼女がぱたりと学校に来なくなってしまったからだ。後から彼女の父親が経営していた会社が倒産し、夜逃げをしたのだと知らされた。
 突然の別れに、さよならも言えなかった。何もできずに終わった俺の、淡い初恋……。

 その彼女が、今目の前にいる。
「よかったら、お店寄ってかない? 友達だし、サービスするよ」
 慣れた所作で、するりと腕を組まれる。彼女の柔らかな胸が、腕に押しつけられていた。きつい香水の匂いに、気分が悪くなりそうになる。
「今日は同僚と来てるんだ。俺一人では決められない」
 本当のことだった。たまたま同僚たちと別れて、次の店を探していたとことだったのだ。それに、俺と彼女は友達と呼べるほど親しかっただろうか。俺が困惑していると、一緒に来ていた同僚に呼びかけられた。
「おーい! 店決まったぞー!」
「今、行く! 先に入っててくれ!」
 俺は、慌てて返事をする。
「ごめん、もう行かないと。よかったら連絡して」
 俺は名刺の裏にプライベート用の電話番号を書いて、彼女に押しつけた。
 同僚たちに合流して、居酒屋に入る。
「ナンパの邪魔しちまったか?」
 同僚に小突かれる。
「そんなんじゃねーよ」
「えー! なになに、ナンパしてたんすか! その話、詳しく!」
 俺はしゃぎ出す同僚たちに無視を決め込んで、ビールをあおった。ひどく酔ってしまいたい気分だった。だけどもその日の俺は、どんなに酒を飲んでも彼女のことが頭から離れず、頭が冴えてしまって酔うことはなかった。

◇◇◇

 突然の再会から二週間。彼女からの連絡はなかった。俺は、彼女の店を訪ねてみた。
 だけども彼女は、もう店を止めてしまっていた。
「二度目の突然の別れか……」
 俺は夜のネオン街で立ち尽くす。
 彼女とどうこうなりたかった訳じゃない。俺が彼女のためにできることなんてないのだから。これでいいんだと、自分に言い聞かせる。
 ただ一つわかっていることがある。伝えられなかったあの頃の恋心は、これからも苦い思い出と共に、俺の心にくすぶり続けるだろう。

 


日替わりお題「キス」

 日曜の昼下がり。出かけたくはなかったが、食料が尽きたので仕方なくコンビニエンスストアへ向かっていた。
「ワンワンワン!」
「うわぁっ!」
 突然目の前に現れたクリーム色の毛むくじゃらに押し倒されて、顔中をベロベロに舐められる。
「コラッ! コムギ、止めなさい!」
 遅れてやって来た飼い主が、俺から犬を引き離すまでの間、俺はされるがままになっていた。
「うちの子がすみませんでした! お怪我はありませんか?」
「熱烈なキスをされましたけど、俺は大丈夫ですよ」
 俺は起き上がりながら、犬を改めて見る。大きな体はクリーム色の長い毛で覆われていている。顔はふさふさの睫に、縁取られたくりっとした黒い瞳が可愛らしい。ブンブンとちぎれそうなほど尻尾を振って、喜びを隠しきれていない。
 ――確か、ゴールデン・レトリバーだったかな。
「あの、これを……」
「いえ」
 申し訳なさそうに差し出されたハンカチを断って、自分のハンカチで顔を拭く。
 恐縮しきりだった飼い主と、やんちゃなゴールデン・レトリバーと別れてコンビニエンスストアに向かう。
「コムギって言うより、ありゃオオムギだったな」

 


日替わりお題「芍薬」「よくみたら…」

 看板猫のミケという黒猫がいる喫茶店『山猫亭』。大正ロマンで統一された落ち着いた佇まいを俺は気に入っていて、こうして度々訪れている。
 俺を案内してくれたウエイトレスは、いつも違う柄の着物を着ていた。今日の着物は、白地に芍薬の柄だった。着物に紺の袴と焦げ茶の編み上げブーツを合わせたハイカラな装いである。そして看板猫のミケは、レジ横の定位置であくびをしている。すっかり見慣れた風景だった。
 注文をとりにきたウエイトレスに、俺はかねてからの疑問を尋ねてみることにする。
「あの。ミケはどうして黒猫なのに、ミケという名前なんですか?」
 するとウエイトレスはミケを抱き上げると、俺の席まで連れてきてくれた。
「この子、子猫のころは三毛っぽかったんですよ。ほら、ここ見てください。柄が残っているでしょう?」
 確かに言われてよく見たら、黒毛に混じってうっすらと毛色の違うところがある。だが、本当にうっすらだ。
「ああ、確かに……」
 名前の由来を聞いてみればなんてことはない。ミケは元三毛猫の黒猫だったのだ。
 ゴロゴロと喉を鳴らしているミケを一撫でしてやったら、「なぁーん」と鳴いた。俺はそんなミケを見て、相変わらず人懐っこい猫だなと思うのだった。

 


書く習慣「昨日へのさようなら、明日との出会い」

「なんだか歌の歌詞みたいなタイトルだな」
 ふらりと寄った本屋で平積みされていた小説本のタイトルが、『昨日へのさようなら、明日との出会い』と、いうものだった。本に添えられているポップを見るに、切ない系の恋愛小説らしいのだが、俺の今日のお目当てはミステリー小説である。気にはなったが、手には取らなかった。
 昨日へのさようなら、明日との出会いということは、今日の話なのかなと頭の片隅で考えながら、ミステリーコーナーにたどり着く。
「さて。手堅くお気に入り作家の新作にするか、それとも冒険して新規開拓するか……」
 本を選ぶ時間というのも楽しみの一つである。俺は無数にある本の中から一冊を選んで会計を済ませる。
 結局小1時間ほど迷った末に買ったのは、今まで読んだことのない作家の本だった。タイトルとジャケットに惹かれて買ったのだが、はたして吉と出るか凶と出るか。俺はわくわくした気持ちで家路を急ぐのだった。

 


日替わりお題「深々」

「すみませんでしたッ!」
 深々と下げられた頭を見ながら、俺はこいつにはつむじが二つあるんだなと考えていた。
 ――さて、どうしたものか……。
 ことの顛末はたいした話ではない。昼休憩で立ち寄ったランチ営業をしている居酒屋で、待てど暮らせど注文した料理が出てこない。確認してもらうと俺のオーダーが厨房まで通っていなかった。そこからホール係のバイト君のつむじを見るはめになったのである。
 今から作り始めてもらっても、到底昼休み中には到底間に合わない。
「気にしないでください。注文はキャンセルでいいので」
 俺が上着を掴んで店を出ようとしたところで、この店の店長だという男がやって来る。
「お詫びとはいってはなんですが、次回お使いいただけるお食事券です。この度は本当に申し訳ありませんでした!」
 またも深々とおじぎをされる。
「ああ、かえってどうも」
 俺は素直にお食事券を受け取って、今度こそ店を出る。

 結局俺はその日、コンビニエンスストアで買ったゼリー飲料で昼食を済ませることになったのだが、もらったお食事券を見て驚いた。
「一万円お食事券? マジかよ……」
 これはいいものをもらった。仕事帰りに部下たちを連れて飲みに行くのもいいかもしれない。
「となれば、さっさと仕事を片付けてしまうことにするか」
 俺は軽やかにパソコンのキーボードを叩くのだった。

 


書く習慣「逃れられない呪縛」

 私は『山猫亭』という喫茶店でウエイトレスをしています。『山猫亭』は大正レトロを基調としたコンセプトカフェです。ジャズが流れる落ち着いた店内は、時間の流れさえも穏やかになったかのようで、お客様も大変くつろいでいらっしゃいます。日常を忘れて心の休息をする場所。それが『山猫亭』なのです。

 ――カランコロン。
 アンテークのドアベルが鳴って、お客様のご来店を知らせます。いらっしゃったのは常連のビジネスマンの方でした。初めてご来店なさったときは、お仕事に疲れ切ったご様子で顔色も悪かったのですが、最近ではめっきり顔色も良くなって、私は一安心していたのです。
 私はお客様を窓側の席にご案内しました。すると、おしぼりで手を拭いていたお客様が店内を見渡しながらお尋ねになりました。
「今日はミケちゃんいないんですね」
 ミケというのは、この『山猫亭』の看板猫です。ミケを目当てにご来店される常連さんも多いのですが、あいにくミケは外出中でした。
「そうなんです。ミケちゃんはお散歩に出ているみたいで……。申し訳ありません」
「いやいや、謝らないでください。猫は気まぐれですからね。それよりも注文をいいですか?」
「はい。承ります」
「ホットコーヒーのビターブレンドとミックスサンドをお願いします」
「はい。かしこまりました」
 厨房にオーダーを通していて、ふと思いつきました。私はメニューボード用のチョークを持って店の外に飛び出します。ガラス窓越しに先ほどのお客様が、何事かとこちらを見ていたので、私は目配せをしました。
 ――まぁ、見ててくださいね。
 私は店の前の道路に、チョークで直径三十センチほどの円を描きました。店内に戻るとお客様が不思議そうな顔で私を見てきます。
「さっきのは何をしてきたんですか?」
「ふふ。これはミケちゃんをおびき寄せるおまじないです」
「おまじないですか?」
「正確には狭いところに入りたがる猫の習性を利用したものなのですが、うまくいったらミケちゃんが円の中に入ってくれるかも知れませんよ」
「なるほど。それは楽しみだ」
 お客様が笑顔になったので、私も嬉しくなります。チョークをかたづけて手を洗っていると、コーヒーの準備ができたようです。
 私がお客様の元へコーヒーを運びに行くと、お客様が瞳をキラキラさせてこちらを手招きします。
「ミケちゃん入りましたね」
「ええ。私もまさか本当に入るとは思っていませんでした」
 窓の外には、チョークで描いた円の中で丸くなっているミケがいました。ここまでの効果があるとは、私も正直驚きました。お客様はコーヒーそっちのけで、窓越しにスマートフォンでミケの写真を撮っておられます。
「猫にとってはあの円が逃れられない呪縛なのかも知れませんね」
「そうですね」
 呪縛とは……。また随分物騒な言い回しだと思いましたけれど、効果を考えるとあながち間違ってはいないのかもと知れないなと、私は思ったのでした。

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