夏目堂 NATUME-DOU
神様と俺シリーズ
神様との出会い
「困った、困った……」
どこからともなく声が聞こえ、俺は何気なく振り向いた。しかし、俺の後ろには誰もいなかった。それでもまだ声は聞こえて来る。
「ああ、一体どこに行ったのだ。困った、困った……」
俺は声の主を探して視線をさまよわせる。電信柱の影、いない。植え込みの後ろ、いない。自販機の影、いない。人がいそうで見落としがちなところを目視で確認してみたが、誰もいなかった。なんの変哲もない、いつもの路地裏があるだけだった。
「早く見つけないと……。困った、困った……」
それでも声は聞こえて来る。俺は耳を澄ませた。声がする方向は……、上だ! 俺はまさかと思いつつ、空を見上げた。
そこで俺は見た。雲の上から困り顔を覗かせ、地上を俯瞰の目で見ている一人の男の姿を……!
バチリと視線が合う。そしてその瞬間に俺は、男が人ではないと気がついた。見かけは二十代半ばに見える。面長の顔につり上がった切れ長の目。目尻の周りには鮮やかな朱色をさしている。輝く黄金色の瞳の真ん中では、真っ黒な瞳孔が縦に割れている。鼻はすらっと長く、口はきゅっと口角が上がっていた。頭には白いキツネの耳がピコンと立ち、尾骨のあたりから白いキツネの尻尾が生えている。
白い着物を着て、まるで白キツネのけも耳和風コスプレをしているような格好だが、俺の本能がこいつはヤバいと告げていた。
――息が、できない……。動け、ない……!
俺は子供の頃から、人には見えないモノが見えた。それは、おばけだとか妖怪だとかと呼ばれているモノかも知れない。その何だかわからない人ではないモノたちは、街のあちこちにあたりまえのようにいた。ただ、そこにいるだけで俺と関わることは、今まで一切なかったのだ。
だから、俺は油断していた――。
「何だ人の子よ、このわしが見えるのか。なんと生意気な……」
キツネ男が発した音が波紋の波になって、ビリビリと胸に響く。体が硬直していなかったら、きっと腰を抜かしていただろう。
――怖い、怖い、怖い……!
目を逸らしたら殺されてしまいそうで、俺は目を逸らすこともできなかった。
「だが、ちょうどいい。貴様に一つ頼むとするか……。よいか。蝶を探し、わしの元へ連れてこい」
何のことだかサッパリわからなかったが、俺は必死に首を縦に振った。断ったら、殺されると思ったからだ。
「蝶を探せ。よいな、蝶を探せよ」
洪水のような光のまぶしさにまばたきを一つする。目を開けるとキツネ男はいなくなり、体の硬直も解けていた。俺は糸が切れた操り人形が倒れるように、ドサリと地面に尻をつく。まだ、体が震えていた。
「何だったんだ、あれは……」
あの威圧感は、今まで見てきたどんなモノとも違う。別格だった。
「おい小僧! アレとはなんだァ!」
「ヒッ……!」
見れば俺の右腕に、ヘビの形の黒い影が張り付いていた。しかも、そのヘビの影が俺に話しかけてきていたのである。
「うわぁああああッ!」
俺はヘビを腕から引き剥がそうと、左手で右腕のヘビの影が映っているところの皮膚を引っ掻いた。するとヘビの影がにゅるりと皮膚の上を滑って、左腕に移った。俺は半狂乱になって、今度は左腕を掻きむしった。
「無駄無駄。そんなことじゃあ、俺様は消えやしねぇよ。諦めろィ」
ヘビの影はいくら追いかけても、皮膚の上を自在に移動して逃げてしまう。そのスピードは、俺の反射速度を遙か彼方に上回っていた。
「クソ、クソ……ッ! どっか行けッ!」
ヘビの影は捕まらない。
「いい加減、諦めろィ!」
ヘビの影は俺の首にぐるりと一周巻き付くと、ぐっと締め上げてくる。息が詰まって、堪らず呻く。
「うグゥ……!」
「いいかァ、小僧。俺様は稲荷神様の神使である白狐様の影の一部だァ。貴様がちゃあんと蝶を捕まえるまで、この俺様が見張っててやるからなァ!」
俺が頷くと、ヘビの影はシュルリと首の締め付けを解いた。
「けほっ、けほっ……。ち、蝶なんて、一体どこを探せばいいって言うんだよ!」
ヘビの影は最初にいた右腕に戻っている。
「んなこたァ、俺が知るかァ!」
「じゃあ。せめて、どんな蝶なのか教えてくれよ」
「あァ? 蝶は稲荷神様のお気に入りでなァ。籠に入れて毎日愛でていらしたんだ。だけどもある日、籠を落として壊しちまったんだ。そんときに蝶が逃げてなァ。以来稲荷神様は悲しみで泣き暮らしておられるんだ」
「事情はわかったけど、なんで俺が……」
「うるせェ! 俺がそんなこたァ知るかァ! 白狐様には白狐様のお考えがあるんだろうよ。四の五の言わずに、さっさと蝶を探しやがれィ!」
こうして俺は蝶探しをすることになった。しかし、蝶を探すと言ってもどこを探せばいいのか、検討もつかない。とりあえずはと、近くの公園に来てはみたものの、蝶どころか人っ子一人いやしない。
「なぁ。ところでその、稲荷神様の蝶ってなに色なんだ?」
「あァ? 蝶の色だとォ? 蝶はなァ、青だった。……いや待て、白だった。んん……? 赤だったかなァ。いやいや待てよ、黄色だったような……」
「呆れた。覚えていないんじゃないか」
「なんだとォ! 青くて、白くて、赤くて、黄色だったと言ってるだろうがァ!」
「はいはい」
――全く当てにならないな。
このヘビの影は本当に頼りにならないなと、俺は思った。最初はパニックになってしまったヘビの影との遭遇だったが、こんなありえないことにもこうして慣れるもので、俺はヘビの影と普通に会話をするようになっていた。
――あー、腕がヒリヒリする。
先ほどむきになってヘビの影を剥がそうと引っ掻いたせいで、俺の両腕には引っ掻き傷が無数にできていた。俺はどうせ剥がせないなら、抵抗などしなければよかったと思った。全く無駄に痛い思いをして損している。
「稲荷神様はなァ、まだ神様になられたばかりなのに、立派に勤めを果たされていてなァ。俺様は白狐様と共にお仕えできて、本当に幸せなんだァ」
ヘビの影は聞いてもいないのに、稲荷神様とやらと白狐についてひたすらしゃべってくる。よほど慕っているのだろう。だがうるさくて、しつこかった。
「神様になったばかりってことは、新米神様だろ。そんなにすごいのか?」
思わず出てしまった言葉だが、完全に失言だった。俺が疑わしく思ったことが火に油を注いだようで、ヘビの影の稲荷神様と白狐語りはヒートアップし、俺は激しく後悔した。
その後も俺は、当てもなく蝶を探し回った。駐車場、小学校の校庭、河川敷、線路沿いの道に、民家の庭先まで。思いつく限りのところは探してみた。しかし、蝶は見つからない。
日がどっぷりと暮れた道を、とぼとぼ歩く。そもそもこの広い街で、たった一匹の蝶を見つけるなんて、無謀だったのだ。余りに理不尽な状況に追い込まれたことに、だんだんと腹が立ってきた。俺はあの白狐とか言うキツネ男に文句を言ってやろうと、最初の路地裏に向かった。
路地裏に着くと、さっきまで居眠りをしていたヘビの影が騒ぎ出す。
「待て、小僧ォ! 蝶はどうしたんだよォ!」
「うるさいな!」
俺は雲一つない星空に向かって叫んだ。
「おい、白狐! この、キツネ男! 出てこいッ!」
「ば、馬鹿やろう! 白狐様に向かってなんて口ききやがるんだァ……ッ!」
ヘビの影が慌てふためいているのが滑稽だ。俺がいい気分になっているのもつかの間、突然もくもくと雲が現れ、星空を隠す。雲間から白狐が姿を現した。
「蝶は見つかったのだろうな、人の子よ」
相変わらずの威圧感に、ちびりそうになる。それでも俺はなんとか耐えて、大きく口を開いた。
「蝶なんか、見つかるわけないだろ! この変な蛇も外せよ。俺はもう、蝶探しなんかしない! まっぴらごめんなんだッ!」
白狐の眉間にグワッと皺が寄り、表情が一転する。ビリビリと肌に感じるプレッシャーに、俺は殺されると思った。いよいよ恐ろしくなって、俺は目をギュッとつむる。
一秒、二秒、三秒……。……。……。八秒まで数えても、何も起こらないことが、かえって恐ろしい。俺は恐る恐る、薄目を開ける。
「なんだ。ちゃんと蝶を見つけて来たではないか」
「えっ?」
俺は予想外の出来事に驚いて、目を見開いた。すると俺の視界の端を、虹色に光り輝く蝶がすり抜けていく。蝶はひらひらと翅を羽ばたかせながら、舞出るように白狐に向かって飛んでいく。
――ああ、確かに青くて、白くて、赤くて、黄色だった。
なんて美しいの蝶なのだろう。おそらくこの世のどこにもあの蝶ほど美しいものは存在しないだろう。きっと神様の国の特別な蝶なんだと、俺は思った。見惚れていると、白狐はサッと蝶を捕まえて、籠の中に閉じ込めた。
「うむ、確かに。ごくろ……、あっ!」
「わぁっ! わたくしの蝶々!」
白狐の後ろから年頃にして八歳くらいの愛らしい少女が突如現れた。蝶の入った籠に手を伸ばしている。
「出てきてはいけません! 稲荷神様!」
「何よ。白狐だって姿を晒しているじゃない。わたくしが顕現して、何がいけないの?」
「稲荷神様ともあろう方が、軽々しく顕現してはなりませんと、いつもあれほど……!」
稲荷神様はどこ吹く風で、蝶の入った籠を手ににこにこと笑っている。丸くてくりくりの瞳に、小さな鼻。まろいほっぺには、赤みがさしている。黒い髪は長く真っ直ぐで、頭の後ろで一つに結っている。白い着物に赤い袴をはいて、白い打掛を着ていた。手には何故が稲の穂を持っているが、清純派美少女のど真ん中。将来ものすごい美人になるだろうと容易に予想できる。しかし、しかしだ、稲荷神様がこんな少女だったとは……。
あんなに偉そうにしていた白狐が、稲荷神様の前ではたじたじになっている。ニヤニヤしながら見ていると、白狐がはたと俺の存在を思い出したようで、咳払いをした。
「……ウォホン! 稲荷神様は本来ならば貴様のような者が、お目にかかることなど到底できぬお方なのだ。稲荷神様の慈悲深いお心に感謝し、平伏せよ」
「あ、はい」
ここは可愛い稲荷神様に敬意を示して、俺は頭を下げる。カワイイは正義だ。
「んもー! 白狐はいつも堅苦しいのよ。あら、おまえ怪我をしているじゃない。治してあげるわ」
稲荷神様が稲の穂を一振りすると、金色の光が俺の周りに降り注ぎ、両腕に付いていた引っ掻き傷をたちまちのうちに治してしまった。
「すごい……!」
俺は素直に感心してしまう。
「あのような者にお力を使うなど……!」
「いいのよ。わたくしの蝶々を捕まえてくれたのだから。これくらいは当然だわ。それより人間。おまえに褒美として白狐の影を授けます。影よ、これからはその人間に尽くしなさい」
「「「ええっ?」」」
俺と白狐とヘビの影の声が、完全に同調した。こんなヘビの影に張り付かれたままなんて、冗談じゃない。
「そんな、いりません! こいつを取ってくれッ!」
「稲荷神様ァ! 後生です! 俺を置いて行かないでくださいッ!」
俺もヘビの影も必死だった。
「あはっ。遠慮するでない。帰るぞ白狐!」
稲荷神様は、瞬く間に雲の中に消えてしまった。
「おい! 待ってくれ! こいつを取ってくれッ! ふざけるな、クソ新米神様ッ!」
「稲荷神様! 白狐様ァーー!」
去り際に一度だけ振り返った、白狐の申し訳なさそうな顔を、俺はきっと忘れないだろう。
こうして俺とヘビの影との奇妙な共同生活が始まった。ヘビの影が俺以外には見えなかったのがせめてもの救いだった。