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疲れたサラリーマンシリーズ

春の訪れ
 

 通勤途中の満員電車の中から眺めた満開の桜は、河川敷にある公園のものだった。眺めたと言っても、それはあっという間のこと。うすピンク色に染まったこんもりとした桜の花の塊が、かろうじて視認できた程度である。ハイヒールの踵で足の指を踏まれ、痛い思いをしながら俺は、今年もいよいよ春が来たんだなと思った。
 ――花見なんて、もう何年も行ってねぇな……。
 最後に花見に行ったのは、学生の頃だったなとぼんやり思う。社会に出てからは、仕事に追われる毎日で、花を愛でる余裕などなくなっていた。とは言え、学生の頃は花よりも、友人たちとワイワイ騒ぐのが楽しかったので、花などほとんど見てはいないのだが。
 ぼうっと感傷に浸っている俺を乗せて、電車は乗り継ぎ駅へ着く。結局俺は電車を降りるまで、名も知らないハイヒール女に足を踏まれ続けていた。

 その日の俺は、珍しく定時で会社を出ることができた。こんな日は、俺は山猫亭に行くと決めている。山猫亭と言うのは、大正レトロを基調とした落ち着いた雰囲気の喫茶店で、俺のお気に入りだ。俺はこの店のビターブレンドコーヒーをこよなく愛していた。
 山猫亭に向かう道すがら、いつもより早歩きになっていることに気付く。楽しみが待っているだけで、こんなにも浮き足だってしまうのだから、俺も現金なものだ。
 山猫亭にたどり着く。重厚な木の扉を引き開けると、ドアベルがカランカランと鳴った。
「いらっしゃいませ」
 ニコリと微笑むウエイトレスは、水色の地に大きく桜が描かれた柄の着物を着て、紺色の袴を履き、フリルのついた白いエプロンを身につけている。足元は焦げ茶の編み上げブーツ。ハイカラな装いである。
 ――今日は桜か……。
 袴とエプロンとブーツはいつも一緒だが、着物の柄は毎回違って、山猫亭へ訪れる際の楽しみの一つになっている。今日の桜の柄は特に見事なものだった。
「春ですね」
「はい、春です。ふふっ、素敵でしょう?」
「いいですね」
「ありがとうございます。それでは、お席にご案内致しますね」
ウエイトレスの案内で席に着く。テーブルの上には桜の小枝が一輪挿しに生けられてて、淡いランプの光に照らされていた。今朝は電車の中から遠くの桜を眺めたが、こんな近くでまた桜を見られるとは思ってもいなかった。
「今日の私とお揃いなんです」
「そうみたいだね」
 ウエイトレスは、はにかんだ笑顔を見せた。こんな時に、なにか気の利いたことでも言えたらいいのだが、あいにく俺にはそんなスキルは備わっていなかった。注文を済ませていつものビターブレンドコーヒーを待つ間、俺はテーブルの上の桜を眺めて過ごす。
 間もなくしてコーヒーが運ばれてくる。湯気の立つコーヒーから香るアロマを、鼻腔いっぱいに吸い込む。琥珀色のコーヒーを一口飲めば、苦みの中にまろやかなコクと甘みが広がる。
 ――ああ、やっぱり美味いな。
 桜を愛でながら、最高の一杯を楽しむ。朝からハイヒールで足を踏まれてついていないと思っていたが、こうしていいこともあるものだと俺は思うのだった。

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