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疲れたサラリーマンシリーズ

山猫亭で過ごす休日
 

 華の金曜日。俺は本屋に向かって繁華街を急いで走り抜けていた。予約している本をとりに行く最中なのだが、本来なら今頃はとっくに本を受け取り、家でくつろいでいるはずだった。それなのに俺は今、本屋の閉店時間を気にしながら必死に走っている。
 こんなことになってしまったのは、終業間際に部下のあり得ないミスが発覚したせいだった。幸いなんとかリカバリーすることができたが、俺はこうして走る羽目になったと言うわけだ。
「クソ……!」
 革靴では走りにくい。思うようにスピードが出せないことに苛立ちながら、腕時計を確認する。現在八時十三分。このペースで走り続けても、あと十分はかかる。本屋の営業時間は八時三十分までだから、本当にギリギリなのだ。
 事前に本屋には遅れるかも知れないと連絡していて、三十分程度なら遅れてもかまわないと言われてはいるが、遅れないのが最善だろう。
 結局、閉店五分前に本屋に到着する。ハンカチで汗を押さえながら、俺はレジカウンターへ向かった。
「予約していた本をとりに来たのですが……」
「はい。お待ちしておりました。商品入荷のお知らせメールのご提示か、注文番号とお名前を教えていただけますか?」
「あ、メールでお願いします」
 俺はスマートフォンでメールを店員に見せる。すると間もなくして無事に本を受け取ることができた。店員に礼を言って本屋を出る。
 本の入った紙袋を胸に抱いていると、ふつふつと喜びがこみ上げてくる。もう急ぐ必要はないのに、逸る気持ちが抑えられなくて、早歩きになってしまっている自分に呆れてしまう。帰りの電車に乗っているときも、駅から家まで歩いているときも、口元が緩んでしまいそうになるのを堪えるので大変だった。
 こうして大事に持ち帰った本だが、せっかくなら最高の環境で読みたいと思った。そこですぐに思いついたのが、山猫亭だった。山猫亭というのは、黒猫のミケという看板猫がいる、大正レトロを基調とした落ち着いた雰囲気の喫茶店である。ちなみに何故黒猫なのにミケという名前なのかと言うと、子猫の頃は三毛っぽかったからだそうだ。
 ――ミケにも会いたいな。
 実はミケのためにおやつを買ってあるのだが、はたして喜んでもらえるだろうか。
 その日の俺は、寝るまで本の装丁を眺めたり、カバーを手のひらで撫でたりしながら過ごした。早く明日にならないかなと思った。

 翌日。天気はあいにくの曇り空だった。だが、それがかえってよかった。晴れのときよりも、曇りや雨のときの方が、俺は読書に集中できるからだ。俺は家を出ようとして、はたと気付く。
「おっと、ミケのおやつを忘れてた」
 猫用のおやつを鞄に入れて、今度こそ家を出る。
 大通りの喧噪から離れた、少し入り組んだ路地の行き止まりに山猫亭はある。まるで隠れるように佇む山猫亭。初めて山猫亭を見つけたときは、こんなところで商売になるものだろうかと心配になったものだが、俺のような常連客も多く、いつ行っても閑古鳥が鳴いているようなことはなかった。
「にゃぁん」
 いつの間にか足元に、山猫亭の看板猫のミケがいた。人懐っこい猫で、俺の足にすり寄ってくる。思えば俺が山猫亭を知ったのも、このミケがきっかけだった。仕事帰りに、まるでついてこいと言わんばかりのミケの跡をつけて行って、気がついたら山猫亭まで案内されていたのだ。たいした看板猫である。
 ――カランカラン。
 ドアベルを鳴らして、山猫亭のドアを開ける。すると俺の足元をスルリとすり抜けて、ミケが先に店内に入る。レジ横の定位置になっている座布団の上で丸くなったミケを見ながら、俺はドアを開けて欲しかったのかなと思った。
 店内は大正ロマン溢れるダークな色合いで統一されている。ランプのオレンジ色の光が淡く、テーブル席を照らしていた。この重厚感がいい。アンティークの蓄音機からはジャズのレコードが流れ、耳に心地良い。
 ウエイトレスもハイカラな装いをしていて、翡翠色の地にカラフルな花柄の着物に袴を合わせ、フリルのついた白いエプロンを身につけ、足元は焦げ茶の編み上げブーツを履いている。相変わらず、雰囲気のいい店だと思う。
「いらっしゃいませ。お席へご案内致します」
 座布団の上で昼寝を始めたミケを横目に見ながら、俺はウエイトレスの案内で席に着く。
 座り心地のよい革張りのソファーに体をあずけて店内を見渡せば、俺の他にも見知った顔がちらほら。皆、各々自分の時間を楽しんでいるようだった。
 熱々のおしぼりで手を拭きながら、俺はコーヒーのビターブレンドとサンドウィッチを注文した。
 ――さて、ここからはお待ちかねの読書の時間だ。
 俺は鞄から本を取り出す。本は四六判のハードカバーで、六百八十六ページ。手に持つとずしっと重みがあった。この重みの分だけ物語を楽しめると思うと、嬉しくなる。
 この本は、俺の推し作家の最新作だ。いわゆる作家買いをしているわけだが、これまで外れたことはない。一昨年から一年間ほど新聞で連載をしていた作品が、この度書籍化されたわけだが、連載中から面白いと話題になっていた。俺は連載の方は読んでいなかったので、書籍化を楽しみに待っていたのだ。
 俺が持っている前情報はこうだ。とある建設現場で起こった転落死。不幸な事故死かと思われたが、実は殺人事件だとわかる。新米刑事とベテラン刑事の凸凹コンビが真実に迫る長編推理小説とのことだった。
 俺は期待に胸を膨らませながら本を開く――。

 テーブルの上には、手付かずのまま冷めてしまったコーヒーと、サンドウィッチ。どちらもいつ運ばれて来たのかわからない。本を読んでいるときに、ウエイトレスが来たような気もするが、正直よく覚えていなかった。
 ――ウエイトレスに無礼な態度を、とっていなければいいが……。
 読みかけのページにスピンを挟み、本を閉じる。コーヒーを口に含む。美味しい。しかし冷めていなかったら、もっと美味しかっただろう。サンドウィッチを一口かじる。美味しい。しかしパンが乾燥していなかったら、もっと美味しかっただろう。
 朝食のつもりで注文したサンドウィッチが昼食になってしまい、俺は反省した。
 コーヒーとサンドウィッチを平らげて、俺はウエイトレスを呼ぶ。
「コーヒーのおかわりをお願いします」
「はい。かしこまりました」
 注文をとり終わったウエイトレスが、テーブルの上の空いた食器を片付けてくれる。
「先ほどは、随分集中なされていましたね」
「えっ! あ、ああ。はい……」
 ウエイトレスからまさか話しかけられるとは思っていなかったので、俺は驚いた。せっかくのコーヒーとサンドウィッチのできたてを放置してしまった罪悪感が、チクリと胸を刺す。そんな俺を見て、ウエイトレスがクスリと笑う。
「読書もいいですが、あまり根を詰め過ぎないでくださいね」
「はい。そうします……」
 自分より年下であろうウエイトレスに、こう言われてしまっては立つ瀬がない。しかし恥ずかしくは思うものの、嫌な気はしないから、これも彼女の人柄かと思う。
 ある程度は気心が知れているが名前も知らない、俺も名乗ったことはない。ウエイトレスと客の関係でしかない、このほどよい距離感に、俺は居心地のよさを感じていた。
 去って行くウエイトレスの後ろ姿を見送って、俺はまた本を手に取る。物語は半分を折り返そうかと言うところなのだが、新たな殺人事件が起こり、事件は混沌としていた。作品の中のあちらこちらにちりばめられた、伏線と謎。一体どんな結末を迎えるのか、全く予測できない。まさに手に汗にぎる展開である。
 ページを読み進めているうちに、コーヒーが運ばれてくる。
「お待たせ致しました」
「ありがとう」
 ――よし! 今度は気付いたぞ!
 澄ました顔で応答をしつつ、心の中でガッツポーズをとる。しかし、そんな俺を見透かしてか、ウエイトレスにクスリと笑われてしまう。
 ――全く、敵わないな……。
 苦笑いしつつ、入れ立てのコーヒーを口に運ぶ。鼻に抜ける深みのある独特のアロマと、舌に乗る苦みと若干の甘みと酸味が抜群に美味しい。こんなに美味しいコーヒーの飲み頃を逃してしまっていたなんて、先ほどは本当にもったいないことをした。二口、三口と飲み込んで、カップをソーサーに置く。
「ふぅ……」
 幸せなため息を一つ。温かい飲み物を飲むと、心までが温かくなるように思えるから不思議だ。
 ――やはり山猫亭はいいな……。
 改めてそう思う。美味いコーヒーと、穏やかに流れる時間。家で一人読書をするのもいいが、こうして外に出るのもよいものだと思った。
「さて、続きを読みますか」
 物語はまだまだ中盤で予断を許さない。早く読んで事件を解決させなくてはと思う。俺はかるく首を回して、こりを解してから本を手にとった。

 それから俺はコーヒーを二杯おかわりし、時間にして二時間ほど経った。あとがきまで全て読み終えて、パタンと本を閉じる。
「ああーー……」
 ――よかった! とても、よかった!
 思わず声が漏れ出てしまったが、完璧なラストとは、まさにこのことだろう。全ての謎は明らかになり、かつ感動的なラストだった。ああ、今日は一日、この感動を胸に抱いていたい。買ってよかったと、本を撫でる。
 たっぷり余韻に浸ってから本を鞄にしまうと、俺は伝票を持って席を立つ。会計をしてもらっているレジの横では変わらず看板猫のミケが昼寝をしていた。俺は持参してきた猫用のおやつをウエイトレスに手渡す。
「あの、これをミケちゃんに……」
「わぁ! ありがとうございます! ミケちゃんも喜びます!」
「ああ、また来るよ」
「ありがとうございました。また、お越しくださいね」
 ウエイトレスに見送られながら店を出る。
 外に出ると、曇りだった空はいつの間にか晴れ渡り、さわやかな青を映している。俺は読了後のすがすがしい気持ちのまま、山猫亭をあとにした。

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